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報恩の人物

コンジク (龔直 : ? ~ 939)

報恩の昧谷出身。新羅の将軍を経て、新羅末期に後百済の甄萱の部下となった。その後、勇猛さで名を馳せたが、後百済の贅沢さと無道に反感を抱き、932
年に高麗に降服。高麗の後百済攻略に大きな功績を立てた。大相になり、後に佐丞となり、この世を去った。司空三重大匡が追贈され、諡号は奉義である。

ク・ボンソ (具鳳瑞 : 1597 ~ 1644)

字は景輝、号は洛州、本貫は綾城、屏菴具壽福の後孫で、具啓の息子として生まれた。

詩で名を馳せた権韠から詩を学び、1617年(光海君9年)に生員試を経て1924年に増廣文科の丙科に合格した。

後に丞文院に登用された後、検閱となる。続いて弘文館、司諫院の官職を経て吏曹郞として仁祖の私親追崇に反対した。賜暇読書をし、参議、承旨、舒川縣監、羅州縣監、全羅道観察使などを歴任、丙子胡乱後に平安道の観察使となった。諡号は景憲である。

尤庵・宋時烈が讃えた神道碑がある。

ク・スボク (具寿福 : 1491 ~ 1545)

字は伯凝、号は屏庵または睡齋、本貫は綾城、進士具イの息子で、大司成の具寿聃の兄である。

1514年に賜暇読書をし、1516年には式年文科の乙科に合格して吏曹正郞に就き、1519年に己卯士禍が起きた時、沈貞たちから北門を開けろと脅迫されたが拒絶、士禍の後に官職を削奪された。官職を離れて妻の実家の報恩へ下りたが、義士・金泰巖に助けられて官妓で生活した。

1533年に李浚慶と弟の寿聃たちの助けで復職し、求禮縣監になったが、在職中にこの世を去った。

クォン・ヤンハ (権穰夏 : 1864~1928)

字は軽遽、号は昴慇、本貫は安東で、権載友の息子である。小さい頃から孝行心が強く、1910年に日韓併合となると苗緒に隠居して閉じこもり、後輩の教育に当たった。

報恩中谷にある蘭菊亭を建てた。

クモデジュンサ (金烏大宗師 : 1896 ~ 1968)

俗姓は鄭氏、本貫は東来、全南の康津出身。

ヨンポの息子で、16歳のときに錦江山の摩訶衍禅院から道岩の弓弦禅寺に出家し僧侶となった。

28歳の時に宝月禅師の嗣法弟子となったが、2年後に宝月禅師が亡くなると、民衆教化と徒弟養成に専念した。韓半島の独立と共に韓国仏教浄化運動を展開し、1954年には全国比丘僧大会の推進委員会委員長に選ばれ、1955年には大韓仏教曹溪宗の総務委員長に選ばれて韓国仏教界の指導に専念した。1967年に俗離山法住寺の祖室となり1968年に亡くなった。

キム・ガギ (金可紀 : 1537~1597)

朝鮮先祖の時の忠臣で、本貫は慶州、字は士元、号は一丘堂。郡守天富の息子に生まれ、版図判書・將有の子孫、成運の門下で修学した。魯城県監として善政を施し、辞職後は故郷に帰ってきて師匠の文集編纂に没頭していた1597年(宣祖30年)、丁酉災乱(慶長の乱)の時に、村に侵入した外敵と戦って殉国した。

その時、彼の夫人の全州柳氏は素手で夫を救おうとして一緒に殉節し、嫁の高霊申氏は避難中外敵に会って敵を殺して殉節したので、一家の3人が同じ日に殉節した。

キム・キョン (金鏡 : 1610~?)

朝鮮中期の武臣で、本貫は慶州、字は千秋、僉知中樞府事・徳民の4番目の息子の獻納・鋿の弟であり、1627年に武科に合格して僉節制使、三道水軍統制使を務めた。

清廉で意志が強かっただけでなく、兵卒を指揮するにあたっては、弟や息子のように面倒を見たため、これに感心した仁祖が『知略が大きく、思考が深くて重いのは、過去の名将でも難しいことだ』と絶賛した。

キム・キョンセ (金景世 : ?~1636)

朝鮮の仁祖の時代の忠臣で、本貫は金寧、1624年(仁祖2年)武科に合格し、宣傳官になった。1627年には兵曹参判に昇進したが、この年に丁卯胡乱が起きて後金と講和するのを見て、帰郷した。

1636年、丙子胡乱が起きると、朝廷が南漢山城に播遷し、忠清監査・鄭世規が勤王兵を率いて参戦する時に19人の義士と八百人余りの義兵を引率して広州の険川で清軍と戦ったが衆寡敵せず、壮烈に殉国した。

キム・クァン(金光 : 1482~1542)

朝鮮初期の学者で、本貫は慶州、字は希實、号は壯庵である。正郞・孝貞の息子で刑曹判書・沖庵の淨の兄であり、判図判書・將有の後孫である。

13才で俗離山の兜率庵で経学に努力し、早くに司馬試に合格したが、勳臣・朴元宗らが王を脅かし、王后の慎妃を廃位させたのを見て、これを排斥する詩を作った。1519年に起きた己卯士禍で弟の淨が災いを被ったのを見ると、世俗を離れることを決心し、俗離山の西方の壯岩洞に家を建て、『学問に努めて一生懸命仕事をする』を座右の銘とし、国が呼ぶのに応じず、学問に専念した。墓地は水汗面の東井里にあり、1973年、報恩邑聲足里の彼の弟の沖庵の遺墟碑のそばに子孫が遺墟碑を立てた。

キム・ソンウォン、(金成遠 : 1565~1592)

朝鮮中期の学者で、本貫は慶州、字は景久、号は松村。從公・熙煙の息子であり、參奉・光の曽孫子で、刑曹判書・浄は従曾祖父である。趙憲の門下で修学し、幼い頃から篤実な行動をし、あらゆることを師匠に尋ね、格別に愛された。

1592年に壬辰倭乱が起きて趙憲が義兵を起こすとすぐに彼について錦山戦闘に参加して趙憲と共に戦死した。1717年、都事に追贈されて故郷の樓淸里に忠臣正門が立てられ、水汗面車井里の後栗祠に祀られた。

キム・オク、(金鈺 : 1603~1646)

朝鮮中期の武臣で、本貫は慶州、字は相之、僉知中樞府事の徳閔の息子で縣監可幾の孫である。1627年、進士試に合格し、玄風縣監となった。公事を迅速明確に処理し、彼の縣監在職中の活躍は『玄風縣誌』に記録されている。墓は報恩邑聲足里にある。

キム・ウォンリャン 、(金元亮 :1589~1624)

朝鮮中期の文臣で、本貫は慶州、字は明叔、号は麋村。月川君・汴の息子で、典翰・天宇の曽孫子、版圖判書・將有の子孫である。金長生の門下で修学し、高麗末期から代々、報恩に住んだ。羅萬甲·趙湜らとの付き合いが深かった。諡号は剛愍で、山外面門岩里に祠堂がある。

キム・ジョン 、(金淨 : 1486~1521)

朝鮮前期の文臣・学者で、本貫は慶州、字は元冲、号は冲菴・孤峯。報恩邑聲足里の出身である。父は戶曹正郞・孝貞で、版圖判書・壯有の六世孫だ。1504年、司馬試に合格し、1507年に增廣文科に首席で合格して、成均館典籍に任命されて弘文館修撰、兵曹佐郞を経て正言に転任された。

著書に『沖庵潗』『濟州風土錄』があり、報恩出身の代表的な学者であり政治家で、聲足里には学問を練磨した石泉庵と遺墟碑がある。

ノ・ビョンテ 、(盧炳大 : 1856~1913)

大韓帝国末期の義兵長で、初名は炳稷、字は相堯、号は錦園。慶山北道の尚州で生まれた。ジョングの息子で、厚齋・克愼の嗣孫として、尚州郡化寧で生まれた。性齋・許傳の門下に入り修学し、1889年に昌陵参奉となった。

1908年に倭兵に捕まって公州裁判所で懲役10年を宣告された。数年間の服役後、1911年に特別赦免によって釈放されたが、再び義兵を集めて抗戦し、再度大邱の牢獄に投獄された。政府では彼の功績を認め、1968年に建国勲章国民章を追敍した。

パク・ムノ、(朴文鎬 : 1846~1918))

朝鮮末期の学者で、本貫は寧海、字は景模、号は壺山。基成の息子で懐北面訥谷里出身である。小さい頃から父閒潭公から字を学び、のちには峿堂・李象秀の門下で性理学を学んだ。

朱子理學を宗とし、栗谷義理を祖として、尤庵と南塘の学説を継承した彼は学が高く人格も高かったため、文毅と私諡された。著書として『壷山集』『女小学』などがある。

ソン・ウン、(成運 : 1497~1579)

朝鮮前期の学者で、本貫は昌寧、字は健叔、号は大谷。副正・世俊の息子である。中宗の時に司馬試に合格、1545年に兄の遇が乙巳士禍で災いを負うと、妻の実家がある鍾谷里に逃げ、隠居しながら学問にのみ全力を傾けた。また、自然を友として修業に励むなど、造詣が深くて整然としていた。

墓と墓石は、報恩邑聲足里にあり、地方記念物第70号に指定されており、隠居して住んでいた場所は報恩邑聲足里に慕賢庵がある。

ソン・シド、(宋時燾 : 1613~1689)

朝鮮中期の文臣で、本貫は恩津、字は誠甫、号は歳寒齋である。父は贈領議政・甲祚で、母は奉事・自防の娘の善山郭氏だった。

義禁府都事として在職したのち、1664年に地方に降りて清安県監、報恩県監を務めた。

著書には『歲寒齋遺稿』があり、報恩に隠居した時、沖庵・金淨と大谷・成運の二人の先生を祀る象賢書院長を務め、東洲・成悌元と中峰・趙憲を追加して祀った。墓地は水汗面の教岩里にある。

オ・ユンジュン、(魚允中 : 1848~1896)

開化期の政治家で、本貫は咸従、字は聖執、号は一齋。若愚の息子として生まれ、9歳で母を、16歳で父を亡くし、幼い頃から農事をしながら夜、読書に励んだ。1868年に殿試の資格試験である七夕製に首席合格し、翌年、文科の兵科に合格、承政院注書に任命されて官吏としての生活が始まった。

穏健開化派だったが、個人的な性分は非常に意志が強く大胆で、甲午更張の財政・経済の部分の全般的大改革は彼が中心になって断行された。1910年に奎章閣大提学に追贈され、諡号は忠粛である。著書には『魚允中全集』があり、三升面仙谷里には彼が住んだ家が残っている。

ユ・シンヨン (柳臣榮 : 1853~1919)

大韓帝国末期の憂國之士で、本貫は豊山、字は敬夫、号は露隠である。石磵・道發の息子で、 西厓・成龍の後孫である。幼い頃から大志を抱き、1910年に韓国併合となり、父が断食17日後に自決すると、故郷を離れて内俗離面三街里に居所を移し、隠居した。

翌年、住みかを外俗離面鳳飛里に移し、李道齎、李一善と交遊しながら国の怨みを晴らすことができないことを嘆き、朝鮮総督府の断髪令に反発して、1918年12月に高宗が逝去するや、喪服を着用して因山の日に飲毒自決した。

ユン・ヨイク (尹汝翼 : 1548~1592)

朝鮮の宣祖の時代の義兵で、本貫は坡平、字は元傾、号は錦左。参奉・垤の息子で、重峰・趙憲の文人である。小さい頃から忠義心が強かった。

壬辰倭乱が起きるとすぐに師匠の重峰について義兵に参加し、清州城奪還に功績を立てたが、錦山の戦いで師匠と一緒に壮烈な最後を終えた。哲宗の時代に忠臣旌門が馬老面閑中里に建てられ、水汗面車井里の後栗祠に祀られた。

ユン・ジョンフン (尹鼎勳 : 1881~1921)

独立運動家で、字は玉鉉、号は國隱、本貫は坡平である。内北面西枝里で生まれた。1919年2月下旬、普段から親しかった孫秉熙から擧事の密令を受けて独立宣言文を入手、帰郷後、擧事謀議を主動して独立宣言文と太極旗を印刷した。4月8日、文衡山で人々と共に独立万歳を叫び独立運動を展開して逮捕され、公州地方裁判所で3年の懲役を宣告されて投獄された。

1977年、大統領表彰を受け1990年建国勲章民族章が叙勲された。墓地は内北面峨谷里にあり、1979年内北面愛郷同志会によって頌蹟碑が立てられた。

イ・グクソン 、(李国善 : 1886~1907)

幼名は逸善、字は君直で、本貫は禮安。在洛の息子として安東で生また。9才の時に根明に養子縁組されて俗離山面の求仁里に来た。容貌は堂々としていて気概があったが家が貧しくて勉強できず、農業に従事したが未亡人の母に対する孝行心が厚かった。1907年、倭兵の強圧によって高宗が退くとすぐにこれに憤慨して、おりしも俗離山で金雲老が義兵を集めるという便りを聞き走って行って加担し、殉国した。

1991年、建国勳章愛国章が追敍された。

イ・リョン (李練)

朝鮮末期の学者で、本貫は慶州、字は景伯、号は然翁で、在觀の息子だった。生まれつき学問が好きで文章と徳行に秀でていた。郷試に何度も合格したが、国が騒々しくて官職の道を断念し、故郷である報恩で父親の面倒を見ながら暮らし、後進の教育に力を注いだ。東学乱の時には君子の先生のお宅だということで村全体が被害を免れた。

イ・ミョンベク (李命百 : 1552~1593)

朝鮮の宣祖の時代の義兵長で、本貫は加平、字は仁老、号は寒圃齋、進士・耿の息子である。炭釜面九岩里で生まれ、6歳の時に忠君愛親と書き、これを行うことが人の道理と言って周囲を驚かせた。

1812年、故郷に忠臣正門が立てられ、1892年吏曹判書に追贈された。墓地は馬老面の猿汀里にあり、水汗面車井里の後栗祠に祀られた。

イ・ミョンホン(李命弘 : 1607~1669)

朝鮮中期の学者で、本貫は禮安、字は仁甫である。生員・晶の息子、翼襄公・蕆の子孫である。洛州・具鳳瑞の門下で修学した。1633年、進士試に合格し、続いて漢成試に3次登門した。孝行心が強く、親族の喪には6年間服し、兄弟が家屋を並べて暮した。官職の道は望まず、高尚な人たちと講論をしながら一生を暮した。

イ・サギュン、(李思鈞 : 1471~1536)

朝鮮前期の文臣で、本貫は慶州、字は重郷、号は訥軒。父は、判官・湜で、母は府使・金潚の娘であった。1498年に式年文科の乙科に合格、承文院の權知として登用された。廃妃尹氏の復位に反対して報恩に送られた。1506年、中宗反正で解放されて副修撰として起用され、翌年、文科重試乙科に合格した。吏曹銓郞、兼、春秋館の記注官になった。

己卯士禍の時、趙光祖一派という謀略を受けて左遷されたが、まもなく工曹参判になり、続いて吏曹判書になった。1534年、參贊に昇進したが、羅世纉を救おうとして慶尚道観察使に左遷された。後にまた知中枢府事になった

著書には『訥軒集』があり、諡号は文剛である。

イ・サンス 、(李象秀 : 1820~1822)

朝鮮末期の学者で、本貫は全州、字は汝人、号は峿堂、演周の息子である。韓元震の学統を引き継ぐ湖論に属した。小さい頃から貧しく病弱だったが、15歳の時に上京して修学し、特に文章力で名前をはせた。求放心を学問の要諦とみなし、諸葛孔明と陶淵明を好み、懐仁と公州に居住しながら朴文鎬のような弟子らを養成した

1910年、奎章閣提学が追贈された。著書に『峿堂集』がある。諡号は文簡で、懐南面新秋里の彼が暮らした昔の秋陽精舍に門下生たちが遺影を奉安し祀られている。

イ・セジョン 李世貞(1436~1516)

朝鮮前期の文臣で、本貫は仁川、字は汝生。長興庫直長・培の息子として生まれた。若くして佔畢齋・金宗直の門下で修業し、成宗の時に司馬試に合格し敬陵参奉となった。続いて淸道郡守となり善政を行い、民たちの尊敬を受けた。退職すると近民数百名が上京して継続留任を望んだりもした。

1498年に戊午史禍が起こると、師匠の佔畢齋を変える白疏を挙げて削職され、報恩へ帰郷した。1518年に復職し、吏曹參判に追贈された。墓地は馬老面箕大里にある

イ・スンチル、(李承七 : 1850~1912)

大韓帝国末期の義士で、字は斗郷、本貫は全州で、慶州営将之鉉の息子として、内北面鳳凰里で生まれた。幼いころから聡明で気概が真っ直ぐで意志が強く、両親の寵愛を受けて育ち、孝行心が強かった。1867年に武科に合格し、主簿を経て松羅察訪を歴任、1886年に司憲府監察となった。

1912年に明治天皇が亡くなると、警察が喪服の着用を強要したが拒絶し、苛酷な侮辱にあったが負けなかった。帰宅し、国を失った民の痛憤を抑制できずに鳳凰亭の絶壁で飛び降りて自決した。 1959年内北面の愛郷同志会で自決した場所に記念碑を建て、1990年建国勲章愛族章が叙勲された。。

イ・イルソン、(李一善 : 1877~?)

近代の学者で、本貫は禮安、字は建五、号は履道齎で、用文の息子である。1904年、27歳の時に義陵参奉となり、続いて中枢議官となった。高宗が昇華すると国葬の陪従官となり、一時は参判・李明搦を訪ねて、義挙を謀議したりもした。

この義挙が途中で発覚して逮捕され、清州の牢獄で獄苦をなめた。純宗の葬式に参加、義親王から李道宰という号を下賜され、その後、俗離山に隠居して引きこもった。

金澤鉉が書いた『履道齎記』が伝わっている。

イ・ジュニョン、(李準永 : 1889~1939)

3·1独立運動の首謀者のひとりで、字は文逸、号は松隠、本貫は禮安である。南善の息子で、鍾石イ・ヨンビンの門下で修学した。1910に韓日合併となると悔しさを抑えることができず、師匠と共に先祖の墓で慟哭した。

1918年、高宗皇帝が毒殺されたという消息を聞くとすぐに喪服を一番最初に着て師匠を訪ね、日本帝国を糾弾する警告文を作成し四方に配り、3月1日を期して独立万歳運動を主導した。

逮捕されて清州の牢獄に拘置され、ソウル刑務所に移管されて2年の懲役刑を宣告された。1992年、大統領表彰が叙勲された。

イ・チャンソン 、(李昌善 : 1895~1961)

3·1独立運動の首謀者のひとりで、字は文若、本貫は禮安である。用琪の息子として、帳安面求仁里で生まれた。1919年3・1運動を発起し、独立万歳運動を主導した。4月11日に太鼓を打ち鳴らして村の住民数十人を集め、求仁里および吉祥里の三峰山に登って独立万歳を高唱し、主導者として警察に逮捕された。

そして5月1日、公州地方裁判所清州支庁で、いわゆる保安法違反で懲役6ヶ月の刑を言い渡され、6月7日、京城複審裁判所で公訴棄却されて1年余りの投獄の苦しみを体験した。1990年、建国勲章愛族章が叙勲され、墓地は報恩邑の吉祥里にある

イ・チョン 、(李蕆 : 1376~1451)

朝鮮の世宗の時代の科学者で武臣。本貫は禮安、字は子見、号は柏谷。軍簿判書・竦の息子である。1393年、17歳の時に別将に任命され、1402年に部科に合格、1410年には武科中試に合格した。

同知総制を経て、慶尚道助戰節税使として倭寇の侵入を防ぐのに大きな功績を立てた。忠清道兵馬節度使に任命され、軍用船を作る仕事にも力を注いだ。この時から彼は物理学者として頭角を現わし始め、武芸を磨きながらも色々な機械装置の原理を考え研究した。

諡号は翼襄で、墓地は分からなくなって帳安面の五倉里に壇所を設置し、世宗大王の遺書版と実記碑を建てた追遠閣が建設されている。。

イ・チョンゲ、(李天啓 : 1507~1550)

朝鮮前期の文臣で、本貫は新平、字は亭白、号は愧堂。軍器少監・士彦の五世孫で、副将・鐵拳の息子として、報恩の梨坪里で生まれた。1537年式年文科に合格、權知承文院正字に赴任した。

賢達ではなかったが意志の強い性分と優れた学問で人々に人望があった。墓地は報恩邑山城里にある。

イ・ホンヨル、(李洪烈 : 1863~1902)

大韓帝国末期の殷師で、本貫は禮安、字は聖範、号は霞山である。哲仁の息子で、芸窓・朴性陽と溪雲・金洛鉉の門下で修学した。1890年に義禁府都事を王から直接任命された。1894年、東学農民革命が起こると、王命を受けて東学軍の動静を探った。

断髮令が下りると弟の定烈が侍丁を進言したが受け入れられず、それを見るや官職を捨て、外俗離面求仁里に帰郷し引きこもった。墓地は炭釜面德洞里にあり、大司成の趙秉楫が書いた墓石がある。

イム・イベク、(任義伯 : 1605~1667)

朝鮮後期の文臣で、本貫は豊川、字は系方、号は今是堂。榮老の孫で、左承旨・兗の息子。母は鄭維城の娘だ。金長生の門下で修学し、宋時烈、宋浚吉たちと交流があった。丙子胡乱が起きると、皆は江華に避難したが彼は敗戦を予測して家族を忠清道に避難させたので被害をこうむらなかった。

1665年、忠清道観察使になり、翌年工曹參判、兼副摠管になった。墓地は俗離山面萬壽里にある。

チェ・スソン 、(崔寿城 : 1408~1521)

朝鮮前期の学者で、本貫は江陵、字は可鎮、号は猿亭。北海居士・鏡浦山人、致雲の曽孫で、世孝の息子である。金宏弼の門下から輩出された新進士林派学者として、趙光祖や金淨らと交流があった。己卯士禍によって同志たちが処刑されると官職を離れ、酒と旅、詩書画、音楽の一生を送った。

馬老面官基里にある孤峯精舎は崔寿城が金淨、具壽福たちと学問を研磨した所で、援汀里は彼が住んでいた所だったので、そのように名付けられた。

チェ・ヨン 、(崔瑩 : 1316~1388)

高麗の名将で、本貫は昌原。懐仁出身であると伝えられている。平章事・惟淸の五世孫、司憲糾正・元直の息子である。風采が立派で、力が秀でていた。

李成桂の軍が威化島で結集して開成に乱入するとすぐに少数の軍でこれを迎え撃って敗戦し、逮捕されて高俸に島流しされ、合浦に移されたが、攻遼罪で開京に強制連行されて斬首された。李成桂は新しい王朝を建て、6年ぶりに武愍という諡号を与えて御霊を慰めた。

チェ・フンリム、(崔興霖 : 1506~1581)

朝鮮中期の学者で、本貫は和順、字は賢佐、号は溪堂。父は壯士郞・垓である。早くから大谷・成運の門下で学び、乙巳士禍が起きると後世のことを心配しながら報恩の金積山に隠居し、官職に就かなかった。

墓地は水汗面光村里にある。

ホン・ユンソン、(洪允成 : 1425~1475)

朝鮮前期の文臣で、本貫は懐仁、幼名は寓成、字は守翁、号は領海。チェニョンの息子として、懐仁面のキョードンで生まれた。1450年に秋場文科兵科に合格、承文院副正字となり、武芸に秀でて司僕寺主簿に抜擢されて兼任した。諡号は威平である。