三年山城の切ない話

三年山城の切ない話
Introduce sultural sightseeing
of Boeun.
報恩邑漁岩里山 番地にある三年山城には、次のような話が伝わっている。この山の中には力の強さで有名な兄妹が、未亡人の母親と暮していた。その兄妹は二人とも体が丈夫で、強いことといったら泰山を持ち上げて非常に重い岩を動かすほどの力を誇っていた。しかし、ひとつ興味深いのは、二人のうち、どちらの力がもっと強いのかその優劣をつけることができなかったのだ。兄が大きな岩を持ち上げると、妹はその岩を手で割って木っ端微塵にしてしまい、一体どちらがもっと強いのかわからなかった。
毎日二人は力比べをしたが勝負を決められなかった。ある日、二人の力比べを見かねた母は、果たしてどちらがより強くて知恵があるのか試してみたくなり、二人を呼んで座らせて「お前達二人は天下の壮士だ。毎日のように力比べをしていたら終わりも限りもないだろう。だから、一度に終わらせてしまうのはどうだろうか。兄のお前はかかとの高い木靴をはいて子牛をひいてソウルに行っておいで。そして妹のお前はお兄さんがソウルから戻ってくるまでに石を運んでこの山の稜線に沿って城を築いてみてごらん。試合は朝日が昇る時にスタートし、西の山に洛陽が落ちるまでに終えなくてはならないよ。試合で勝った人が負けた人の命を取りなさい。」試合の結果は余りにも残忍だが、このような試合をさせようとすれば二人が今後は力比べをしないだろうと信じて言ったことだった。しかし、二人は喚声を上げ、拍手して喜んだ。「お兄さんの首は私のものね。」「笑わせるな。明日の夕暮れを見ていろ。」こうして次の日の朝、東から太陽が昇ると、二人は最後の決判をかけた試合に入った。兄は木靴を履いて子牛をひいて出かけ、妹は石を運んで城を築き始めた。母は当惑せざるを得なかった。まさか命を懸けてまで試合はしないだろうと信じていたのだった。試合の結果によって息子であれ娘であれどちらかが死ななければならない。なぜこんな試合をさせたのか?と後悔もしたが、今となっては仕方がなく、結果を見守るしかなかった。暑かった日差しも和らぎ、西の山にゆっくりと日が沈み始めた。
娘は城を築き上げた。後は木で扉をつければ終わりだ。そのとき息子はどこまで来たのか知る由もなかった。母は落ち着かなくなってきた。「息子が……、息子が帰ってこなきゃならないのに。」時間が経つほど焦ってきた母は、恐ろしい計略を思いついた。それは母たちに共通した心情だった。試合が終わればその結果に従い、どちらかが命を失うことになる。そうならば息子を生かさなければならない。これは母の思いだった。それで母は息子が戻ってくるまで娘が扉を作れないように遅れさせる計略を立てた。「娘や、城を建て終わったんだね。」「そうよ。扉をつければ私の勝ちよ。」「じゃ、お前のお兄さんが負けるのね。」「そうよ。私がお兄さんに勝つのよ。」母はこの言葉に鳥肌が立った。「さあ、お腹がすいただろう。小豆粥をおいしく煮ておいたから、食べてからやりなさい。」「いいえ、扉をつけてから食べます。」「食べてからやってもお前が勝つのに変わりはない。お前のお兄さんはきっとどこかで休んでいるか眠っているのだろう。だから小豆粥を食べてから扉をつけなさい。」母の懇切な頼みをそれ以上断ることができず、娘は母について家に入り、小豆粥を食べ始めた。母は最後に作ってあげる食べ物になるかもしれない小豆粥を、心を込めて作った。本当においしい小豆粥だった。ぐつぐつ煮て熱いままよそってくれた小豆粥だったが、おいしくて、娘は冷ましながらおいしく食べた。
あと小豆粥が数さじしか残っていないその時だった。兄が体中を汗でぬらして、疲れきって帰ってきた。彼は妹が積み上げた城を見た。「やあ、俺が勝った。ほら、この城は門がない。門を作れなかったんだな。」この状態に困ったのは母だった。娘は息子に余裕で勝てたはずなのに、息子を生かすために熱い小豆粥を食べさせたために死ななくてはならなくなったのだ。「息子や、いくら約束が大切だといっても、一人しかいない妹を殺したりはできないだろう?この母を思って許してやってくれ。妹を殺すというのなら、いっそのこと母を殺せ。」と泣いて哀願したが、息子は冷淡だった。自分がこの世で一番恐ろしい壮士なのに、いつも妹のせいで妨害された。この絶好の機会を利用して妹を殺し、世界で一番強い壮士になろうというのだ。物置小屋から大きな斧を持って出てきた兄を見て妹は、「お兄さん、同情を求めるのは愚かなことよ。ほら、約束どおりに私を殺してちょうだい。そしてどうか一人残ったお母さんをしっかり扶養してあげてください。」と言いながら、年老いた母の世話をできずに死ぬことが無念だと泣きながら、兄が振り下ろした斧で死んでいったということだ。築城にまつわるこのような伝説は、郡内の懐北面富壽里にある峨嵋山城にもある。ただ、兄が木靴を履いて子牛をひいて行って来たのではなく、千斤にもなる岩を背負って五百里を行って来たということと、母が小豆粥ではなくおこわを炊いてあげたということが違うだけである。