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報恩の由来

HISTORY OF BOEUN

報恩の由来

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of Boeun.

恩恵に報いるという美しい名称を持つ報恩郡は、はるか昔の三国時代には三年山郡または三年郡と呼ばれていた。西暦470年、新羅第20代の慈悲王13年の時、報恩邑の東側4㎞地点に百済の侵略を防ぐための山城を築いて三年山城と名づけたが、伝説によれば、三年で築き上げたため三年山城と称したとされる。三年山郡と呼ばれるようになったのも歴史的には三年山城が築かれた慈悲王13年庚戌西暦470年からだと記録されている。

その後、高麗王建太祖10年、西暦928年に保齢と改称し、朝鮮第3代の太宗6年、丙戌西暦1406年に報恩に改称したが、報いる報の字、恩恵の恩の字を合わせて呼ぶようになったのにはそれなりの理由が語り伝えられてきた。 西暦1392年、壬申年に朝鮮を創建して王座に就いた太祖は、膝元に8人の王子がいたが、第1王子から6番目までは神懿王后韓氏が産んだ子供であり、7番目と8番目の王子は神徳王后康氏が産んだ子供であった。

太祖は次代の王位継承者を決めるのに神徳王后康氏の言葉を重んじるなど、当時の情勢が熟していくと、これに気付いた朝臣の中の開國功臣の鄭道傳らが康氏の実子で8番目の息子・芳碩を皇太子として擁立することを秘密裏に決議し、同士を作って韓氏の子供である王子たちを退ける計略を練り始めた。

特に、朝鮮国の創建に至大な功績を残したことのある芳遠を支持する者たちによって殺害された。この事件を一般にはいわば『王子の難』と言うが、その後、太祖の2番目の息子である芳果が定宗大王として代を継いだ後、5番目の芳遠が太宗大王として王位に就いたが、太宗は、王位をめぐって繰り広げられた王子間の争いを痛恨に思った。

特に、忠臣たちの間でそれぞれの王子を支持する勢力で分立し、島流しに向かっていた康氏の子供である2人の王子が自分を支持する群れによって無残に殺害されたことに対しては、最後まで責任を負わねばらならない罪の意識にさいなまれ続けた。

そのため太宗は、王座について3年後に、新羅の時から名寺として有名だった俗離山の法住寺で無念に殺害された2人の弟王子たちの魂を慰めるため、侍者に命じて天道仏事を盛大に行い慰労したと言われている。

その後、常に心に引っかかっていた罪悪心と恐れがきれいに払拭されると、大きく感嘆し、奇異に思っていた太宗は、即位6年目の丙戌年、西暦1406年に地方行政区域を大々的に指定する際、忠清道にも保寧(ポリョン)という地名が2つあるので重複を避けるため改名するよう命じ、報いる報に恩恵の恩を合わせて報恩(ポウン)と呼ぶように下命したということだ。