皮發(ピバル)嶺とスリティ峠
皮發(ピバル)嶺とスリティ峠
Introduce sultural sightseeing of Boeun.
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清州から懐仁を経由して報恩に来る国道に、清原郡と報恩郡の渓に『皮発嶺』という高い峠があり、懐北面と水汗面渓に『スリティ峠』があるが、この二つの峠の名前に関し、梧里大監に関連した伝説がある。梧里大監というのは、朝鮮宣祖王の時から仁祖王の時代に至るまでの3人の王に領議政(国務総理)として輔弼した李元翼先生のことで、背が非常に低かった人としても有名である。彼は天性が単調で竹を割ったように真っ直ぐで、自分のすべきことをするだけで、人と煩雑に付き合うとか自分を他人に理解させようという努力はしなかった。
彼はまた、非常にきさくで質素であり、正承を長く担当し、彼が住む家は雨風すらも凌げない、今にも崩れ落ちそうな粗末な草葺屋根の家で、老いて病気になって亡くなる時には薬を買う余裕はもちろんのこと、食事すらもろくに食べられなかったといわれており、たくさんの逸話が伝説のように伝えられている。彼は慶州牧使(市長)となり赴任の途についた。ソウルから清州に着くと慶州戸長(地方官署の官吏長)が四人轎(四人が担ぐ籠)を持って迎えに出てきていた。新任使道であった梧里大監は、そこから四人轎に乗って任地である慶州に向かうこととなった。ところでその時は陰暦6月で並大抵の暑さではなく、歩くことさえも大変であったのに輿を担いで行くのだから、その苦痛は言葉にできないほどであり、戸長は戸長で、服が雨にぬれたように汗で濡れ、歩くことも大変であった。清州を出て半日ほど歩くと、大きくて険しい峠が現れた。
平地を歩いても死にそうなのに、輿をかついで真昼に峠を越える担ぎ手も担ぎ手だが、戸長が使道を見ると、背は小人のように小さい上に輿の上でゆっくり扇子を仰いで左右の山川を見渡しながら偉そうにしているので、あの背の低い使道の知恵を試してやろうと考えた。戸長は峠の下に着くと輿を止め、使道の前に出て腰を折って、「使道、この峠は三南地方で一番高い峠で、万一この峠を輿に乗って越えるとなると、担ぎ手たちは疲れてしまい、懐仁に着いてから3~4日はそこで留まらなければなりません。」
というので、「一日も早く到着し、溜まっている業務を処理しなければならない身であるのに途中で遅れることができるだろうか?私は歩いて峠を越えよう。」と言ってさっさと峠を歩き、越えたところで後ろを見ると、戸長がにんまりと笑って後からついて来ていた。その時にやっと戸長のいたずらだとわかった梧里大監は、心の中で(こんな悪い奴がいるだろうか?)と思い、足を止め、ついてくる戸長に向かって「おい!お前と私は身分が違うのだから、私が歩くのにどうしてお前も歩くのか?私が歩くのならお前は地面を這って行くべきだろう」と言った。使道の厳しい命令に、戸長は両手と膝を足にして険しい峠を這って登るしかなかった。峠の頂上に登ってみると戸長の手のひらと膝からは血が出てとても見られたものではなかったといい、戸長は自分の過ちを深く反省することになった。懐仁で一日休み、二日目に報恩に来る途中でまた険しい峠が現れ、戸長は、この峠を歩いて越えると言ったらまた這って行けと言われるのが怖くて、木を切って車を作らせ、車に四人轎を乗せてから峠を越えたといわれている。その後から血の足(ピバル)になって越えたという意味で『ピバル嶺』、車(スレ)で越えたので『スリティ峠』と呼ばれるようになり、漢字を好む人々によってピバル嶺は『皮盤(ピバン)嶺』、スリティ峠は『車嶺』と表記されて今日まで伝わっているという。また、皮発嶺には次のような伝説もある。
皮発嶺を越えて懐仁に来る途中の峠の下に梧桐という村があるが、この村を過ぎて約2里ほど来ると高石里との岐路があり、この岐路に『サグンタリ』という橋がある。壬辰倭乱の時に援軍として韓国に来た明の国の大将李如松は、風水地理に明るい人だった。彼が朝鮮の山川を見ると精気がみなぎり、立派な人物がたくさん輩出される地形だとわかったが、朝鮮に多くの有能な人材が生まれると大国の明に大きな災いが及ぶだろうと考え、山脈を切って地脈をなくしてしまおうと考え、山川の地形を切ってしまったことは有名な話である。この李如松が、戦いが終わって帰国する途中に峠を越えると、山川の精気が突出していることを感じ、兵士たちに山の腰を断つように命令した。兵士たちが刀やつるはしなどで山の腰を切ると赤い血がほとばしり、その血は川となって流れ出し、地形が途切れたところから10里ほどになる地点まで流れてなくなった。こうして血(ピ)が流れた峠という意味で名を『ピバン嶺』と呼ぶようになり、血が静まり(サガ)なくなった場所を『サグンタリ』と呼ぶようになったと言う。